コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その105

 

前回の終わりに「細部を描写しないで全体の印象をつかむ練習」と書いたけれども、それはどのような絵かというと、上に掲載したベルト・モリゾ静物画が例として適当だろう。一見すると未完成のようだが、サインが入っているので作者は出来上がっていると考えていたことになる。描きなぐりのような絵なので容易に描けそうだが実はそうでない。似たような画面ならば誰にでも描けるだろうが、この作品と同程度にモチーフ全体の印象を統一して生き生きと捉えるのは難しい。つまり、描けそうで描けない絵である。

私が時折、いい絵だなあと大変感心させられる生徒の作品の特徴も「描けそうで描けない絵」の魅力があることで、そういう魅力が生まれたのは感覚に正直に描いているからだと思う。ベルト・モリゾの作品をいろいろ見ていると、彼女が優れた色彩家で感覚に非常に正直な画家であったと思わせられる。自分の感覚に正直になるというのは大変なことで、ちょっと唐突なたとえ話をするなら、私たちは地球が太陽の周りを回っている事実を「知っている」。しかし、日常生活では太陽が動いていると「感じている」。地球が動いているという事実と自分が感じていることが相違しているわけだが、こういう場合に感覚を正直に信じられるだろうか。

似たようなことが絵を描いているとよくある。例えば都会の繁華街の景色を描こうとするときだ。建ち並んでいるビルには様々な看板が取り付けられていて、遠景のビルにひときわ目を引く真っ赤な大きな看板が設置されている。遠近感を出すには近くをはっきりと(強く)、遠くをぼんやりと(弱く)描くとうまくいくと知っているなら、その看板には鈍い赤色を置いて遠景(事実)を表すだろう。しかしそれでは感じた印象とかけ離れた色になってしまい、感覚に正直ではない。

絵を描き始めてからそれなりの経験を積んだ人は、ヴァルールに配慮して遠景の大きな看板の色を強くしないだろう。その方が距離感が出るからだが、往々にして画面が平凡で退屈になることがある。だったら感覚に正直になって遠くの看板を鮮明な赤色に塗るとするなら、今度は遠近感が崩れて画面が破綻する場合が多い。「感覚に正直になる」ことと「統一感のあるいい絵にする」ことを両立させるのは難しいけれども、成功した場合は作者独自の「描けそうで描けない絵」になる。

前回に「奥行きはほどほど出ればよい」と考えることを提案した。その意図をさらに説明するなら以下のようになる。近くをはっきりと(強く)、遠くはぼんやりと(弱く)描くというような方法を守るべきルール化しないで、臨機応変に利用するくらいの気持でいる方がよい。何よりも自分の感覚に正直になることを出発点としたいからであり、その結果が遠近感の不十分な絵になってしまったとしても失敗ではないだろう。描き方の方法を覚えて従うよりも自分の感覚を信じる制作に重きを置くことが、(誰でも)描けそうで(自分にしか)描けない絵を育んでいくと考えるからである。

遠近感の話の続きは次回に。