コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その59

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前回の続き、モチーフについて書こう。どのような対象を描こうかと考えるとき、「描きたいものを描きたいように描けばよい」とあっさり割り切ってしまうのも悪くはないだろう。それならば、上に掲載した高橋由一の「豆腐」(1877年)を見て、彼は油揚げと焼き豆腐と豆腐が描きたかったから描いたのだと結論してよい、とするならちょっと違うと思う。

高橋由一は代表作の一つ「鮭」からも分かるように、対象を克明に描写してリアルさを追求した画家として知られている。そうすることで最終的に何を表現したかったのかには今は触れない。とにかく、リアルさを追求するという制作意図は明確だから、描く対象を選ぶときも克明に描写することを前提にそれに適する対象を探したはずである。何かに興味を惹かれたとしても、制作意図をうまく実現できそうな対象かどうかを吟味していると思う。だから、朝起きて何気なく台所をのぞいたらまな板の上に油揚げと焼き豆腐と豆腐がのっていて、偶然それを見て大変美しいと感じ描いたらたまたま傑作が出来上がったみたいな逸話がもしあったとしても、私にはとうてい信じられない。

さて、「描きたいものを描きたいように描く」という信条について言うと、それは「好きなものは好き」とか「嫌なものは嫌だ」と似て感覚を大いに拠りどころとしているのだが、制作の姿勢としては間違ってはいないと思うけれども物足りなさを感じてしまう。例えば花瓶にいけられた花を目の前にして、「きれいだなあ、描いてみよう」と思うのは絵を描いている人には自然な成り行きだ。そこには制作意図は何かなどの理屈は意識されず、「きれいだから描きたい」という感情の動きがあるだけかもしれないが、制作の動機としては十分だろう、写実で描くならば。一方、制作意図を考えないで描きたい気持ちだけで取り掛かかった場合、結果的にいい絵が描き上がるかどうかは運任せというか、才能次第というか、描いてみなければ分かりようがない予想不可能な状況になってしまうこともあるのだ。それもスリルがあって楽しいといえばそうだけれども、もっと制作を突き詰めて考え結果のコントロールを望むならば、制作意図とモチーフの関係に踏み込むべきだろう。続きは次回にしたい。