コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その157

 

いろんな美術展に機会を逃さず足を運ぶことで、日本にいながらにしてルネサンスやバロックの名作絵画を目にすることができる。それらの絵は、画題もそうだが何よりも描き方が似ていて、美術史の専門家でない一般の人が見ても個々の画家の特色が分からない。つまり、没個性の絵画なのである。ところが、後期印象派と一括りにされているゴッホとゴーギャンの絵は、一般の人が見ても描き方の違いは歴然としている。とても個性的な絵画なわけだ。簡単に言ってしまえば、近代絵画になるまでは、個性的な表現の絵を鑑賞する側は求めていなかったし認めてもいなかった。ところが、近代になってマネやモネ、ルノワールやセザンヌなど個性的な絵を描く画家が出現して、それらの絵を鑑賞する側が評価し求めるようになってきたわけである。印象主義の理論に共感して評価する人がいたのは当然だが、そういう理論に詳しくない一般の絵画愛好家にも好まれるようになっていく。このような歴史の流れは現在まで続いている。専門家でない普通の絵の好きな人が、美術理論がどうこうではなく、変わった描き方の個性的な表現を個人個人の感性で「いい絵」と評価するようなった、このことは重要な変革が社会に起きた現れでもあると思う。

さて、写真を見ながら風景画を描く場合、油絵でも水彩画でも、まずは木炭や鉛筆で形を写し取るだろう。しかし、初歩の人は、建物や樹木や道路などが混み入った景色だと容易に写し取れない。不正確でも概ね写せたら着色すればよいのだが、そうすると色彩はともあれ、経験豊富な人でない限り写真の景色とはかなり違った風景画になってしまう。では、その絵は失敗作だろうか?失敗作だと思って破り捨てる前に、もう一度、その作品をしげしげと眺めてみよう。そして、上に掲載したゴッホの絵と見比べたなら似ている点を発見できるかも知れない。

上に掲載したのは、ゴッホの最晩年の作品。色も形も実景からかなりデフォルメしていると思われる。ひどく歪んだ家屋が印象的だ。はっきりした太い輪郭線が目を引くが、輪郭線を使うことで平面化を意図している。色彩はベタベタと平塗りされているから、なおさら平面的な絵になっている。樹木や草地や屋根や壁など、どれも詳しく描写されていない。つまり実景を写そうとした絵ではない。それでいて、この作品はとても魅力を感じる個性的な絵画になっていると思うのだ。ということは、「形が歪んでいる、輪郭線が強い、ものの感じを詳しく描写していない、色彩が実物と似ていない、遠近があまりない平面的な絵になっている」、これらの特徴は失敗作の理由にはならないわけだ。ところで、これらの特徴のいくつかは、先に述べた「失敗作」にも見られる点ではないだろうか。そうだとするなら、個性的な表現と解釈するべき点なので、失敗作と思われた自作も個性的になっていると考えればよいのである。

とはいうものの、ゴッホの絵と自分の絵を同じように論じられても納得いかないと考える人が多いと思う。私が言いたいのは、ゴッホと同じレベルの個性的な表現ができるとか、それを目指そうという話ではなくて、失敗と思った点を個性的な表現と考えてもよいのではないかということ。「失敗と個性は紙一重」なのであるということ。さらに言うと、写真を見て風景画を描いて、実景と似せて描けなかったから失敗だと考えるのをやめて、最初から実景とそっくりにすることに拘らないで風景画を描いた方が、自然と無理なく個性的な描き方に進んでいけると思うのである。

個性的な描き方の話は次回に続く・・・。

 

絵を描くのが上手くなる方法、その156

 

このコラムで執拗に、「趣味で絵を描いている人は、できるだけ写実から離れて印象派風の絵を描こう」と提案している。写実画を目の敵にしているわけでなく、技術的負荷の少ない画法が印象派風に描くことだと考えるからだ。そして、個性をのびのび発揮しやすいのも印象派風の絵画ではないだろうか。今回は「個性を発揮する」について。

後期印象派と呼ばれるグループがある。セザンヌやゴッホやゴーギャンなどの画家である。モネやシスレーなどの初期の印象派と違い、印象派の画法を受け継ぎながらも個性を発揮し独自の絵画を確立した。モネやシスレーは、目に見える光を色で忠実に表現したわけで、つまり「見える通りに描く」に徹した。客観である。それに対して、セザンヌやゴッホやゴーギャンは、印象派の描き方を踏襲しながらも見える通りに描くのでなく、「画家の内面を探求する」ことに重点をおいて描いたのである。主観にシフトしたのだ。もう少し詳しく述べてみよう。

モネやシスレーなどの主眼は、刻一刻と変化する光の具合や空気感を色彩で客観的に見えたままに描くことで、その表現に感情を盛り込むことはしない。ここがポイントで、感覚を研ぎ澄ませて一瞬の光を色彩で捉えるが、そこには感情は関与しないわけだ。美しい木漏れ陽を描くとき、喜びを表すための色彩は使わない。しかしゴッホやゴーギャンは、見えたままの色でなく感情を表す色彩に置き換える。ゴッホが描く日没の太陽を背にした「夕陽と種まく人」は、農夫の喜びを表すような「黄色」が空一面に塗られた作品だ。ゴッホが描く絵は、形も感情を表している。「星月夜」のうねる夜空が、ゴッホの内面の心情を表しているのは明白だろう。「色彩と感情」は一例に過ぎない。セザンヌの「個性の発揮」はさらに大胆だ。モネやシスレーなど初期の印象派は、遠近法や立体感の表し方などは従来の絵画と同じルールの範囲内で描いているが、セザンヌはまったく別のルールを自分で作ってしまった。描き方は印象派風なのだが、根本の絵画の成り立ちを変えた絵を描いている。モネやシスレーなど印象派が、「光と色彩に注目したら外の世界はどう見えるのか」を突き詰めてみたことの反動で、後期印象派の画家たちは、自分たちの内なる世界に眼が向かったということか。

さて、印象派風に描くことを練習するとき、セザンヌやゴッホやゴーギャンなどの後期印象派の絵も考えに入れておくとよいと思う。とくにゴッホのように感情の表現と色彩を結びつけることは、一部の人にとっては必要不可欠な表現手段となるかも知れない。また、色彩ほど個性的なものはないから、感情の表現とは無関係なつもりで好き勝手な色使いをしてみるのも面白い。面白いというのは自然と個性的な絵が出来上がるという意味である。無理に個性を発揮しようと頑張る必要はないと思うが、印象派風に描くときに後期印象派の絵も頭の中に置いておくと自由度が増して、自然と個性が発揮された画面になる可能性はある。

上に掲載したのはゴッホの「花咲く果樹園」だ。色彩も形もをゴッホの内面から出たもので、実際に見えたままの色や形に従っていない。画面が黄色だらけで、前景にも後景にも黄色が配されている。木の幹にも黄色がある。そういう色彩やポキポキしたタッチやカクカクした木々が、どのようなゴッホの内面の反映かは分からない。けれども、普通に現実を反映しているわけでないことは明白で、表現の個性とはそういう形で表れる。印象派風に描くときに、色や形をどれくらい主観的に描けるかを気にしてみると、個性を発揮することについての考えが深まっていくだろうし、自分の絵が個性的であるかないかを考える契機にもなる。

印象派風に描くことを提案している理由の一つは、その人なりの個性的な絵を描くことにつながりやすいからである。しかしながら、個性的な絵を描くことは大事なことだろうか。この話は次回以降に続けていこうと思う。

 

 

絵を描くのが上手くなる方法、その155

 

印象派を代表する画家の一人、カミーユ・ピサロはアナーキスト(無政府主義者)だった。1894年に、アナーキストの爆弾事件がありフランス大統領が暗殺された。この事件後もピサロはアナーキスト新聞を購読し、思想を変えなかった。そのことにドガは激怒し、長年の仲間だったピサロとの関係が悪化した。ルノワールも政治的には保守寄りで、社会主義やアナーキズムには否定的だったので、ピサロがアナーキズムの思想を語ると露骨に嫌がった。ルノワールは、芸術家は政治に関わるべきでないと考えていたらしい。セザンヌはピサロを芸術上の父と慕っていて、「我々は皆、ピサロから生まれてきたのだ」という言葉を残しているが、政治的には保守だったから、晩年はピサロの政治的発言を理解できないと語っていたという。

さて、なぜピサロがアナーキストだったことを書き連ねているのか。それは、ピサロが、アナーキズムという思想を絵画上で実践しようとしていたと考えられているからである。それでは、上に掲載したピサロの作品を見てみよう。まず、ちょっと戸惑うのは主役がはっきりしないことで、家屋なのか手前の大きな木なのか判然としない。しかしここで「戸惑う」のは、画面には主役、つまり見せ場が置かれているはずと思っているからで、画面全体は均質であり主役も脇役も存在しないと考えるなら、何の不都合も感じないはずだ。ピサロは故意に画面上に中心(主役)を置かないのである。それは、彼のアナーキズム思想が視覚的に表現された結果だという。従来の絵画、特に歴史画や宗教画には必ず画面の中心となる王や聖人などが存在する。しかし、アナーキズムの本質は「支配的な権力の否定」や「個の平等」だから、絵画で実践するなら、画面上に中心(主役)が存在してはならないのである。ピサロの風景画では、道端の草も遠くの家々も、空の雲も働く農夫もすべて同じくらいの存在感を与えられていて、どこか一点が突出し主役に見えることを避け、画面全体が等価に響き合う構成を目指していたと考えられている。

しかし、当時の批評家からは、「どこを見ていいのか分からない、散漫だ」と批判された。中心を作らない構図なわけだから、視線は画面全体を回遊するのだ。印象主義が批判されたこととは別に、「中心が不在の画面」という点でもピサロは従来の絵画との違いを批判されたわけだから、一見すると穏やかな絵に見えるピサロの作品は、かなり革新的だったわけだ。ピサロにとって風景画を描くことは、「美しい景色を写し取る」以上に、「世界をどう組み立てるか」という哲学を表現する作業だったと言ってよく、「見せ場を作らない」というスタイルは、「誰もが平等で誰にも支配されない世界」を画面上に実現しようとした結果である。

以上のことを踏まえた上で、風景画を印象派風に描くときにピサロの作品のどの点が参考になるのかを述べると、第一に主役(見せ場)を必ずしも作る必要はないということだ。見せ場を作ると画面をまとめやすいのは確かだが、風景によっては主役になりそうなものがないときがある。そういう場合に無理やり何かを主役にしてしまうと、自然な感じが失われてわざとらしいし、望んでもいない情緒が画面に現れてきて都合が悪い。無難な定番としては、見せ場を作って画面の統一感を図るけれども、必ずしもそれが最適解とは決まっていないことを常に頭の片隅に置いておきたい。また、画面上のどれもが同等の重みを持つという考えからは、何かを特に描き込んで表すことを避けなければならないが、上の絵からもそれは明らに見て取れる。大きな木もその他の木も後ろの家屋も、雲も手前に佇む人も、すべて同等の描写具合である。この点も制作の参考にしたい。「何かを描き過ぎては(描写し過ぎては)いけない」と思いつつ描き進めるのは、写実的にならず印象派風に仕上げるには重要なポイントだろう。

ピサロは、スーラやシニャックに影響されて点描画を制作をしていた時期がある。点描法に取り組んだのは、やはりアナーキズムの思想を絵画で表すためだったという。ピサロの作品は穏やかで地味な印象だが、その底流には強烈な思想が隠されていたわけである。次回も印象派風に描くときのお手本となる作品を取り上げて、画家の思想と制作における関係も考えながら、何をどのように参考にするとよいかを考えてみたい。