コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その158

 

個性が感じられる絵を描くことが重要視されてきたのは、前回に少し述べたように、近代絵画の自然な流れなのである。これは、個人個人の人間性をもっと尊重しようとする社会の変化と呼応している。そういう社会の現実と絵を描くというまったく個人的な行為が密接に関連しているのは、いつの時代を考えても不思議ではないだろう。だから、現在の日本において、趣味で絵を描いている人の多くが、多かれ少なかれ自分らしい個性が表れた絵を描きたいと望んでいるのは、とても自然であって理にかなっていると思う。「多かれ少なかれ」と書いたが、個性的な絵を描きたいという気持ちの強弱は人それぞれだろう。特に意識している人もいれば無意識の人もいるかも知れない。しかし、自分らしさを絵に出したくないとか、誰かのエピゴーネンで満足するという人は稀有な存在に違いない。なぜなら、「絵を描く」イコール「創造する」という図式は揺るがないと考えるからだ。

さて、大多数の日曜画家が自分らしい個性が表れた絵を描きたいと望んでいるとして、どのような練習をしていくとよいかに話を進めたい。まず言えるのは、いつもと同じように描いていて「あっ、失敗した!」と思ったら、すぐに修正・抹消せずに一旦筆をおくことだ。そして、いつもとは別の視点から、本当に失敗なのかを検証してみるのである。失敗が失敗でない場合がいくらだって考えられるからだ。上に掲載したスゴンザックの水彩画を見てみよう。

まずはバックである。まだらな着色と乱雑な斜めの太いタッチで描かれていて、まったく「きれい」には塗られていない。自分の絵がそうなったときに、「汚くなった、失敗だ」と考えてしまう人はいないだろうか。ところが上の絵では少しも失敗している感じには見えず、リズミカルな効果を与える表情に見えてくるのである。次に花の部分を見てみよう。何の花かが分からない雑な描写で、奥行きも感じられず押し花みたいな印象になっている。このような花になってしまったら、「グチャグチャになった、何とも下手くそだ」と破り捨てたくなる人が多くいそう。ところで、画面の4分の1くらいの面積を占める花のこの描き方が、全体の表現を主導していると考えてみよう。そう考えてあらためて画面全体を見ると、結果として、実にユニークで個性的な絵にすることに成功していると評価できると思う。この主導的な花の描き方に合わせて、果物や広げた新聞やテーブルが描かれているわけで、破綻のない表現の統一がなされて、堅固な画面を作り上げているのだ。このように、失敗したのか成功の素となるのかは非常に判断しにくいといえる。上のスゴンザックの水彩画は、とくに水彩画を描いている人が「失敗」と考えていることが、「成功の素」になり得ることを教えてくれると思う。

普段の制作で失敗だと思い込んでいること、多くの場合は「写実のルール」に頼りすぎていることからくるのだが、そういう「失敗事象」が制作中に出てしまったら、時間をかけてじっくりと画面を眺めてみて、「それほど悪くない」とか「何だかいい感じに思える」とかの感触を得ることができないかと自身に問うてみるとよい。それでもし、その感触があったなら、「失敗」ではなくて新たな「表現の芽」なので大事に育てる方策を試行してみる。それが、自分らしい個性のある絵に近づけてくれる練習の一つであるると思う。まずはこの練習から始めるのが適当で、それほど難しくもないだろう。次回も個性的な絵を描くことについての話をする予定。

 

絵を描くのが上手くなる方法、その157

 

いろんな美術展に機会を逃さず足を運ぶことで、日本にいながらにしてルネサンスやバロックの名作絵画を目にすることができる。それらの絵は、画題もそうだが何よりも描き方が似ていて、美術史の専門家でない一般の人が見ても個々の画家の特色が分からない。つまり、没個性の絵画なのである。ところが、後期印象派と一括りにされているゴッホとゴーギャンの絵は、一般の人が見ても描き方の違いは歴然としている。とても個性的な絵画なわけだ。簡単に言ってしまえば、近代絵画になるまでは、個性的な表現の絵を鑑賞する側は求めていなかったし認めてもいなかった。ところが、近代になってマネやモネ、ルノワールやセザンヌなど個性的な絵を描く画家が出現して、それらの絵を鑑賞する側が評価し求めるようになってきたわけである。印象主義の理論に共感して評価する人がいたのは当然だが、そういう理論に詳しくない一般の絵画愛好家にも好まれるようになっていく。このような歴史の流れは現在まで続いている。専門家でない普通の絵の好きな人が、美術理論がどうこうではなく、変わった描き方の個性的な表現を個人個人の感性で「いい絵」と評価するようなった、このことは重要な変革が社会に起きた現れでもあると思う。

さて、写真を見ながら風景画を描く場合、油絵でも水彩画でも、まずは木炭や鉛筆で形を写し取るだろう。しかし、初歩の人は、建物や樹木や道路などが混み入った景色だと容易に写し取れない。不正確でも概ね写せたら着色すればよいだろう。しかしそうすると、色彩のことはおくとして形に関しては、経験豊富な人でない限り写真の景色とはかなり違った風景画になってしまう。では、その絵は失敗作だろうか?失敗作だと思って破り捨てる前に、もう一度、その作品をしげしげと眺めてみよう。そして、上に掲載したゴッホの絵と見比べたなら共通点を発見できるかも知れない。

上に掲載したのは、ゴッホの最晩年の作品。色も形も実景からかなりデフォルメしていると思われる。ひどく歪んだ家屋が印象的だ。はっきりした太い輪郭線が目を引くが、輪郭線を使うことで平面化を意図している。色彩はベタベタと平塗りされているから、なおさら平面的な絵になっている。樹木や草地や屋根や壁など、どれも詳しく描写されていない。つまり実景を写そうとした絵ではない。それでいて、この作品はとても魅力を感じる個性的な絵画になっていると思うのだ。ということは、「形が歪んでいる、輪郭線が強い、ものの感じを詳しく写していない、色彩が実物と似ていない、遠近があまりない平面的な絵になっている」、これらの特徴は失敗作の理由にはならないわけだ。ところで、これらの特徴のいくつかは、先に述べた「失敗作」にも見られる点ではないだろうか。そうだとするなら、個性的な表現と解釈するべき点なので、失敗作と思われた自作も個性的になっていると考えればよいのである。

とはいうものの、ゴッホの絵と自分の絵を同じように論じられても納得いかないと考える人が多いと思う。私が言いたいのは、ゴッホと同じレベルの個性的な表現ができるとか、それを目指そうという話ではなくて、失敗と思った点を個性的な表現と考えてもよいのではないかということ。「失敗と個性は紙一重」なのであるということ。さらに言うと、写真を見て風景画を描いて、実景と似せて描けなかったから失敗だと考えるのをやめて、最初から実景とそっくりにすることに拘らないで風景画を描いた方が、自然と無理なく個性的な描き方に進んでいけると思うのである。

個性的な描き方の話は次回に続く・・・。

 

絵を描くのが上手くなる方法、その156

 

このコラムで執拗に、「趣味で絵を描いている人は、できるだけ写実から離れて印象派風の絵を描こう」と提案している。写実画を目の敵にしているわけでなく、技術的負荷の少ない画法が印象派風に描くことだと考えるからだ。そして、個性をのびのび発揮しやすいのも印象派風の絵画ではないだろうか。今回は「個性を発揮する」について。

後期印象派と呼ばれるグループがある。セザンヌやゴッホやゴーギャンなどの画家である。モネやシスレーなどの初期の印象派と違い、印象派の画法を受け継ぎながらも個性を発揮し独自の絵画を確立した。モネやシスレーは、目に見える光を色で忠実に表現したわけで、つまり「見える通りに描く」に徹した。客観である。それに対して、セザンヌやゴッホやゴーギャンは、印象派の描き方を踏襲しながらも見える通りに描くのでなく、「画家の内面を探求する」ことに重点をおいて描いたのである。主観にシフトしたのだ。もう少し詳しく述べてみよう。

モネやシスレーなどの主眼は、刻一刻と変化する光の具合や空気感を色彩で客観的に見えたままに描くことで、その表現に感情を盛り込むことはしない。ここがポイントで、感覚を研ぎ澄ませて一瞬の光を色彩で捉えるが、そこには感情は関与しないわけだ。美しい木漏れ陽を描くとき、喜びを表すための色彩は使わない。しかしゴッホやゴーギャンは、見えたままの色でなく感情を表す色彩に置き換える。ゴッホが描く日没の太陽を背にした「夕陽と種まく人」は、農夫の喜びを表すような「黄色」が空一面に塗られた作品だ。ゴッホが描く絵は、形も感情を表している。「星月夜」のうねる夜空が、ゴッホの内面の心情を表しているのは明白だろう。「色彩と感情」は一例に過ぎない。セザンヌの「個性の発揮」はさらに大胆だ。モネやシスレーなど初期の印象派は、遠近法や立体感の表し方などは従来の絵画と同じルールの範囲内で描いているが、セザンヌはまったく別のルールを自分で作ってしまった。描き方は印象派風なのだが、根本の絵画の成り立ちを変えた絵を描いている。モネやシスレーなど印象派が、「光と色彩に注目したら外の世界はどう見えるのか」を突き詰めてみたことの反動で、後期印象派の画家たちは、自分たちの内なる世界に眼が向かったということか。

さて、印象派風に描くことを練習するとき、セザンヌやゴッホやゴーギャンなどの後期印象派の絵も考えに入れておくとよいと思う。とくにゴッホのように感情の表現と色彩を結びつけることは、一部の人にとっては必要不可欠な表現手段となるかも知れない。また、色彩ほど個性的なものはないから、感情の表現とは無関係なつもりで好き勝手な色使いをしてみるのも面白い。面白いというのは自然と個性的な絵が出来上がるという意味である。無理に個性を発揮しようと頑張る必要はないと思うが、印象派風に描くときに後期印象派の絵も頭の中に置いておくと自由度が増して、自然と個性が発揮された画面になる可能性はある。

上に掲載したのはゴッホの「花咲く果樹園」だ。色彩も形もをゴッホの内面から出たもので、実際に見えたままの色や形に従っていない。画面が黄色だらけで、前景にも後景にも黄色が配されている。木の幹にも黄色がある。そういう色彩やポキポキしたタッチやカクカクした木々が、どのようなゴッホの内面の反映かは分からない。けれども、普通に現実を反映しているわけでないことは明白で、表現の個性とはそういう形で表れる。印象派風に描くときに、色や形をどれくらい主観的に描けるかを気にしてみると、個性を発揮することについての考えが深まっていくだろうし、自分の絵が個性的であるかないかを考える契機にもなる。

印象派風に描くことを提案している理由の一つは、その人なりの個性的な絵を描くことにつながりやすいからである。しかしながら、個性的な絵を描くことは大事なことだろうか。この話は次回以降に続けていこうと思う。