
個性が感じられる絵を描くことが重要視されてきたのは、前回に少し述べたように、近代絵画の自然な流れなのである。これは、個人個人の人間性をもっと尊重しようとする社会の変化と呼応している。そういう社会の現実と絵を描くというまったく個人的な行為が密接に関連しているのは、いつの時代を考えても不思議ではないだろう。だから、現在の日本において、趣味で絵を描いている人の多くが、多かれ少なかれ自分らしい個性が表れた絵を描きたいと望んでいるのは、とても自然であって理にかなっていると思う。「多かれ少なかれ」と書いたが、個性的な絵を描きたいという気持ちの強弱は人それぞれだろう。特に意識している人もいれば無意識の人もいるかも知れない。しかし、自分らしさを絵に出したくないとか、誰かのエピゴーネンで満足するという人は稀有な存在に違いない。なぜなら、「絵を描く」イコール「創造する」という図式は揺るがないと考えるからだ。
さて、大多数の日曜画家が自分らしい個性が表れた絵を描きたいと望んでいるとして、どのような練習をしていくとよいかに話を進めたい。まず言えるのは、いつもと同じように描いていて「あっ、失敗した!」と思ったら、すぐに修正・抹消せずに一旦筆をおくことだ。そして、いつもとは別の視点から、本当に失敗なのかを検証してみるのである。失敗が失敗でない場合がいくらだって考えられるからだ。上に掲載したスゴンザックの水彩画を見てみよう。
まずはバックである。まだらな着色と乱雑な斜めの太いタッチで描かれていて、まったく「きれい」には塗られていない。自分の絵がそうなったときに、「汚くなった、失敗だ」と考えてしまう人はいないだろうか。ところが上の絵では少しも失敗している感じには見えず、リズミカルな効果を与える表情に見えてくるのである。次に花の部分を見てみよう。何の花かが分からない雑な描写で、奥行きも感じられず押し花みたいな印象になっている。このような花になってしまったら、「グチャグチャになった、何とも下手くそだ」と破り捨てたくなる人が多くいそう。ところで、画面の4分の1くらいの面積を占める花のこの描き方が、全体の表現を主導していると考えてみよう。そう考えてあらためて画面全体を見ると、結果として、実にユニークで個性的な絵にすることに成功していると評価できると思う。この主導的な花の描き方に合わせて、果物や広げた新聞やテーブルが描かれているわけで、破綻のない表現の統一がなされて、堅固な画面を作り上げているのだ。このように、失敗したのか成功の素となるのかは非常に判断しにくいといえる。上のスゴンザックの水彩画は、とくに水彩画を描いている人が「失敗」と考えていることが、「成功の素」になり得ることを教えてくれると思う。
普段の制作で失敗だと思い込んでいること、多くの場合は「写実のルール」に頼りすぎていることからくるのだが、そういう「失敗事象」が制作中に出てしまったら、時間をかけてじっくりと画面を眺めてみて、「それほど悪くない」とか「何だかいい感じに思える」とかの感触を得ることができないかと自身に問うてみるとよい。それでもし、その感触があったなら、「失敗」ではなくて新たな「表現の芽」なので大事に育てる方策を試行してみる。それが、自分らしい個性のある絵に近づけてくれる練習の一つであるると思う。まずはこの練習から始めるのが適当で、それほど難しくもないだろう。次回も個性的な絵を描くことについての話をする予定。

