コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その123

 

前回の続き。印象派風に描く場合は、あらかじめ色彩をどのように扱うかの心積もりがあるとよいだろう。というのは、見えるがままの、見えた通りの色をおけばよいだろうと考えていたとしても、「見えた通り」の解釈は一筋縄にはいかないのである。新鮮な眼でものを見ないと、表層的な意味での見えたままの色彩で安心してしまう。今回はこのことを考えてみたい。

さて、上に掲載したのはモネの「ウォータールー橋」(1903年)だ。画像であるから実物の作品とは色が違っているとしても橋を青色に塗っているのは明らかだが、どのような天候の下でも現実に青色に見えるのか疑問が起こる。しかし、モネの眼には実際に青色の橋に見えた瞬間があったと考えて間違いない。そしてモネは、自分が見た「青色の橋」という印象を表現するためにはどのくらいの、どのような青色であれば「見えた通り」になるかを追求したはずである。画面全体の色彩は、青色の橋に相応しい現実的な調和を生み出すべく自ずと決まっていく、そういうことだと思う。

ものをじっと見ていると瞬間的に様々な色彩が見えてくる。赤いリンゴを目の前に置いてじっと凝視していると、部分的に赤色以外の色、例えばオレンジ色や紫色や青色などに見える瞬間がある。そういうある瞬間に見えた色を尊重して描くことは、見えた通りに現実を表現したとも考えられるわけで、制作中の気持ちの隅にこの考えがあると色彩をより自由に扱える。そして、瞬間的に見えた色のバリエーションを使うと印象派風の絵を描くことにつながる。もっとも、ただ単に色を自由に使うだけなら表現主義に向かうことになるから、「見えた通り」の色彩であるべきだろう。「見えた」という現実から逸脱しない自由な色使いをして描くわけだ。

ところで、風景を描くために戸外を散策していて気に入った景色に出会ったとする。印象派の画家なら、まずは光に注意をはらうだろう。陽射しの向きはどうか、光は強烈だろうか優しいだろうか。晴天の日でも曇りの日でも、雨の日でさえも太陽の光は降り注いで様々な色彩を生み出している。太陽の光は短い時間のなかで移ろうものだから、ものの色は微妙に変化し続けている。変化し続ける色彩を捉えるには、どこかで折り合いをつけないといけない。どのような瞬間の色彩で折り合いをつけ決定すればよいのかが難しい。そういうことなら風景の写真を撮って描き写せば解決するかといえば、印象派の本来の意味からは離れた作品となってしまうだろう。印象派の画家のように風景を描くなら、戸外で実際に光を感じながら、変化する色彩の瞬間の姿をつかまえる気持ちで描くところからスタートするべきだと思う。

とはいうものの、これは純粋に印象主義に則って描く場合の話で、そこまで印象派に拘っていない、何となく印象派風の明るいきれいな色彩の絵を描きたいだけという人もいて、当然それでもよいと私は考えるから、写真を使って印象派風の風景画を描く話を次回は書く予定。