コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その90

f:id:gaina1995:20210905153616j:plain

 

木村泰司著「名画はおしゃべり」は、一般の美術好きにとって美術史の貴重な知識が得られる大変面白い一冊である。この本の書き出しは、「現代では洋の東西を問わず、アーティスト(芸術家)という存在が氾濫しています」と始められている。そして、「芸術的な気質の持ち主=芸術的な才能の持ち主である」といった勘違いを洋の東西を問わず多くの人がしている、現代の日本に蔓延する「芸術に携わる=格好良い」といった風潮が何よりいただけない、といった意見が述べられていく。なかなか手厳しいが、私はまったく同感する。そもそも近年の日本では、「芸術」という言葉が安易に使われ過ぎている。「芸術」を明確に定義するのは私には難しいのだが、少なくとも絵画でいうなら、「きれい」「美しい」「巧み」なだけでは芸術作品とはいえない。見る人の心をわしづかみにして深く感動させるミステリアスな何かを内包している作品こそ、芸術と呼ぶには相応しいと考えている。例えば、上に掲載したヴェロッキオのデッサンみたいなものである。

木村泰司氏は、ルネサンス期のイタリアで初めて画家が職人から芸術家へ昇格した、そういう努力を画家自身が積み重ねたというようなことを書いている。以後の西洋では、画家達が自らを職人と差別化し芸術家と認知させ社会的地位を向上させていったという。日本ではどうか。「我が国は美術アカデミーが確立した欧米と異なり、芸術家(芸術品)v.s. 職人(工芸品)という構図がとられることはありませんでした。それは今も同じです。(中略)しかしこのような芸術家と職人、芸術品と工芸品の境界が曖昧な状態は日本だけの特殊事情といってよく、欧米では通用しません(良し悪しの問題ではないのでご理解を)」と木村氏は述べている。これは絵を描いている人が気にするべき大切な指摘だと思う。

木村氏は、現代の日本の画家についても「美術家自身が芸術家であるか職人であるか自覚していない場合があり・・・」と言っている。これから多少ずれる話になるが、私は次のようなことを連想してしまった。プロの画家の展覧会に行くと、「とても巧みで美しいけれども、絵としては何だか物足りない作品」に出会うことがままある。つまりは、素晴らしく優れた工芸品だが芸術品としての絵画ではないと感じてしまう。なお、急いで付け加えると、工芸の分野でも芸術品と言える作品はある。それは陶芸の世界を見れば十分だろう。陶芸でも工芸品か芸術品かという構図がある。さて、何も芸術、芸術と念じて制作する必要はない、というかそれはまずい制作姿勢だが、工芸品として巧みな絵画かそれとも別の何か優れた内容があるかは気にして描くべきだ。

プロの画家に比べて、「芸術をしよう」などと余計な考えから自由なのが趣味で描いている人ではないだろうか。それと同時に、芸術品としての絵画は、優れた工芸品と同じではないという意識も薄いように思う。このことには敏感で自覚的である方が、我流というか、自分なりの自由な制作に専念できる。職人的な技巧を重視しなくなるからだ(不必要という意味ではない)。結果として、芸術になるかどうかは分からないが、独自のいい絵を生み出せる可能性が高まると思う。ここまで書いてきて、まっ先に思い浮かぶ画家を挙げるなら、素朴派の画家アンリ・ルソーである。続きは次回に。