コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その89

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前回の話の続き。「趣味で絵を描いている人は、早い段階で自由に描くようになる場合が多い」と書くと、そんなことはない、ずっと先生の指導に従って描いているという意見があるだろう。これについて少々しつこく説明したい。

 まず、プロを目指している画学生を考えてみると、最初はとにかく写実的な描写表現ができるように練習する。好きなように自由に描いてはならない。デッサンを描くときだけでなく、油絵など色彩を使う場合でも同様である。現在の美術系大学ではかなり違う点も見られるが、これが昔ながらの一般的な学習過程であるといえるだろう。そしてこの学習期間は結構長い。なぜ長くなるかというと、苦手なことを克服してできるようになるまで練習するから。

それでは、趣味で絵を描いている人はどうか。絵画教室で習い始めて日の浅い人は、とにかく先生の言う通りに描こうとするだろう。描き方を習うわけで、たいていは写実的に描く手法だ。具体的な技術も教わる、例えば水彩画なら、混色の仕方、ウエット・イン・ウエット等の色の塗り方、陰影の入れ方、筆の運び方などである。この段階で自由に描いてみようとする人はいないだろう。そうして練習を積んでいくけれども、だんだんと自分に上手くできることと苦手なことが分かってくる。苦手なことの例は、形が狂う、立体感がスムースに出せない、奥行きが出ない等である。

苦手なことができるように練習に努めてみるけれども、納得できるほど上手く描けない場合に、先生のアドバイスに耳を傾けつつも、自分なりの手法での解決を模索する人が多いようだ。つまり、この段階から我流になっていく。冒頭の「自由に描くようになる」とは、このことを指している。そして、我流を尊重することは将来に個性的ないい絵を描ける源泉になる、私は長年生徒の作品を見てきてそう考えるようになった。

話は前後するけれども、画学生の話に戻る。昔の西洋の画家が職人としての訓練を長期間積んだことに比べると、現代の画学生の訓練は知れたものであるのはやむを得ない。それでも、ある一定のところまでは我流で描くのは通用しない。我流を否定的に捉えるのは職人の世界なら当然のことで、上に掲載したヴェロッキオの作品といわれる「キリストの洗礼」の一部分を、優秀な弟子であったレオナルド・ダ・ヴィンチが任されたのはそういうことだ。だから、画学生がする訓練も職人的な技術という意味合いがないわけではない。写実的に描写する訓練は、絵画の基礎だからというだけの簡単なものに考えない方がよいと思う。

 さて、趣味の人が我流になっていく話に戻る。リンゴを油彩などで描こうとするとき、手でつかめそうなほどリアルな立体感を表現するには、調子を正確に捉えてスムースにつなげていく必要がある。調子を的確に写せる「眼」がいる。ところが現在の自分には、そういう眼が十分にそなわっていないとき、どうするか。それなら、代わりに何か別の得意な「眼」の能力を発揮してリンゴを表現してみようとする、これが我流である。では別の「眼」とは何か。色彩を見る眼であったり、微妙な表情をつかむ眼であったり、対象の雰囲気を感じる眼であったりする。このようにして出来上がった絵は、かなりリアルな写実からは離れてしまう。それでまったく問題ないわけで、将来的にいい絵を描けることにつながっていく。そうはいっても、この考え方は正しいのか、次回からさらに説明を試みることにする。