コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その28


自分自身の感覚を何よりも信じて感じたままを絵にしていくことを続けると、その人らしい個性が表れた独自の画風の作品が創れるようになると私は考えている。
独自の画風の絵といっても、ピカソやブラックが創造したキュビスムのような思想を表した新奇なスタイルを指しているわけでない。感じているものを実現するつもりで一生懸命描いていたら、いつの間にか自然と生まれ出てきたもの、そういう絵を意味している。

ところで写実絵画を制作するとき、見えているものや感じていることに忠実に描くのが本来だから、当然そのように描き進めていると思っていても実際はそうではないだろう。これまで絵を描いてきて知ったこと、知識に頼って絵を描いていることが結構多いからで、例えばパースという知識を考えてみよう。
パース(パースペクティブ、透視図法)はとても便利な知識であるけれども、パースの理屈通りに見える物(建築物など)がある一方でそうは見えない物(机上の小箱など)もあって、しかも見るという感覚には個人差があるから、パースの理屈に当てはめて絵を描いても自分に見えていることと同じであるとは限らない。私は初心者にデッサンの指導をするときには、目の前に箱を置いてパースの説明をするのだが、時たま生徒から「私にはそうは見えません」と言われることがあり、確かにそうだよなあとこちらが納得してしまう。
パースは大変便利でリアルな絵を描くときに役立つ知識だが、それに頼っていると何の疑問もなく必ずパースをつけてしまうのであって、それは自分自身が感じているまま見えているままを絵にしていることにならないときがある。こういう頭でっかちの、思考が感覚よりも上位にくるような制作は避けたいものだ。

さらに、かなり写実的に描こうと思っていて、見えるものや感じることに忠実に絵を描こうとするときのことを考えてみる。見えているものを忠実に描いてしまうと、感じていることには忠実でなくなると思える場合がある。具体例をあげる。
風景画を描いていて、あそこに電柱が見えるけれども描いたら画面に邪魔な感じになるかなあと思うときがあるだろう。見えている電柱を描くか、感じていることに従って描かないかのどちらかを選択しなければいけない。こういうときこそ感覚をフル稼働させなければならない。電柱という垂直線が画面にあった方が美しいだろうか、不必要な余分な縦線に過ぎないだろうか。あってもなくてもどちらでもよいことはあり得ない、そう思う方が上達していけるのではないか。

絵を描いているとき、「感覚を十二分に働かせているか、いや、まだまだ不足だ」と反省することが私にはよくある。制作の間中、感覚がフル稼働している状態を保つのは相当に難しいことなので、一歩一歩のつもりで気長に描き続けるしかないだろうというのが私の結論だ。
次回も感覚のことを書いてみたい。
掲載したのは、アンドリュー・ワイエスの作品。