コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その22


前々回でふれたように、趣味で絵を描いている人が上達するための秘訣は、何といっても描くことに興味を持ち続けることだろう。しかしながら、油絵や水彩画を5、6年以上も描いているとだんだんと作品がマンネリになってきて、伸び悩みを感じるようになって、そうすると描くことが楽しくなかったり飽きてくることも起こる。
そんなときに、もっとしっかりと絵画の基礎を勉強する必要があるのかなと考える人もいるだろう。
さて、1953年初版の「洋画技法講座、デッサン」という本のなかで、安井曾太郎が絵画の基礎的な勉強について書いている。全文を転載してみよう。


「西洋の良い絵には、それがどんな表現のものでも、その奥に非常にしっかりした土台がかならずあるのです。その土台なるものがすなわちデッサンであります。ですからいいかえれば、良い絵はかならずしっかりしたデッサンをもっているということであって、デッサンとは形と明暗の段階であります。
わが国にも、もちろんしっかりした土台をもつ良い絵はなくはありませんが、しかし土台のない絵があまりに多いように思います。これからの若い人にはほんとうに良い現代の絵、しっかりした土台のある絵を描いてもらいたいのです。それには基礎的な勉強、すなわちデッサンの勉強が必要です。デッサンの勉強はあなたが最初に絵画の道に入られるとき、初歩の時分にきわめて大事なことであって、後になってはなかなか素直な勉強はできないようです。

対象を見たまま正確にデッサンする勉強が是非とも必要です。正しい形と明暗を十分よく見出して写しとることです。それには最初石膏を、それから人体をデッサンすることが一番よいように思います。石膏は白色ですから色にごまかされずに明暗の段階がじつによくわかるし、動かないから形を思うだけ十分によく見て写すことができるので、初歩の人にははなはだよいモデルです。また同時によい石膏は古典的な美を教えてもくれます。美術学校や研究所などはそういう基礎訓練の場所であります。
しかし学校や研究所のような設備のないところでは、基礎の勉強として静物などデッサンすることもよいと思います。なるべく色かずの少ない、形のはっきりした、動かないものを選んで、その正確な形と明暗の段階をつかみ、写す勉強をすることです。また白い布の上に白い器物をおいて、それをデッサンすることなどもよいと思います。白色のものは石膏同様、色に邪魔されずはっきり明暗の段階を見出すことができるからであります。ものをよく見ること、それはじつに大切です。良く画くということはよく見るということです。

ぼくはいつも学校で学生に対象を親切にていねいによく見て、そして元気よく画け、といいます。元気よく画くというのは乱暴に画くということではありません。ものの見方が粗雑な場合、できたものが乱暴な作品となるのです。乱暴なものは作らないようにしてください。それにはやはり初歩のとき、形や明暗の段階をただしく見ることの練習をおこたらないよう訓練することが大事です。
絵画入門は色からよりもむしろ形からであります。幾度もいうようでありますが、しっかりした基礎を初歩のときに作ってもらいたいのです。かならず初歩のときでなくてはなりません。よくある程度絵の描ける人が後になって自分の仕事にデッサンのないことをさとって、最初の基礎的勉強から出直したいといわれますが、それはとても困難なことだと思います。多少頭のできた人は素直に土台の勉強はできないからであります。

以上絵画の基礎としてどうしてもデッサンの勉強が必要であることをいいましたが、その勉強さえすればかならずよい絵ができるとはいえません。その後は習得されたところの基礎の上に、あるいは自然によって、あるいは名画によって、またいろいろの芸術作品その他によって、自由に研究を積み、真剣に制作してもらわねばなりません。そしてそこではじめて美しいよい絵ができるのであります。芸術的なよいデッサンもできるのであります。
ただしかしそれに天分と勉強ということが問題になってきます。いくら基礎の勉強をしても才能のない人は凡作しかできないと言うことになるのであります。絵画の修業はなかなか簡単ではありません。

提出したデッサンは基礎的修行中のもので、二十二、三歳ごろパリのアカデミージュリアンの研究所で描いたものであります。研究生が大ぜいで、高いモデル台の近くで描いたので、見あげたポーズになっています。毎週モデルがかわることになっていましたので、午前中一週間で描きました。だいたい指で調子をつけたのですが、顔とか手とかなどの細かい部分は小さい擦筆を使うこともありました。そういう擦筆は材料店で売っていましたし、また紙きれで自分でも適宜に作ってつかってもいました。」


上に掲載した裸婦のデッサンは、文中「提出したデッサン」とあるもので、安井氏の秀でたデッサン力が如実に表れている。
ところで、この一文は60年あまり昔のものだが、こういうデッサンの勉強が絵画の基礎であるという考えには今でも賛同する人が多いように思う。私は1970〜80年代に、美術研究所と美術大学でこういうデッサンを勉強した。その経験を踏まえた上でよくよく考えて私なりの意見を書いてみることにする。

安井氏のいうデッサンの訓練を積まないとけっして描くことができない絵があることは確かなことだと思う一方、まったく別のそうでない絵があることも間違いない。そして、どちらの絵の方が優れているとか芸術性が高いとかそういう区別はできない。そもそも区別しようとすることが無意味なことだろう。近代以降の西洋絵画史をちょっと繙くだけでもそれは明らかなことのように思える。
どちらの絵にも人を感動させる力を持つ絵があり、そうでない絵もある。
趣味で絵を描いている人の多くは、安井氏が述べているデッサンの訓練をしていないだろう。だからといって土台のしっかりした絵を描けないわけではない。基礎ができてなくていい絵が描けないとは思い込まない方がよい。絵画の基礎は、こういうデッサンの訓練に限ったものではない。デッサンにもいろいろなデッサンがあるし、絵画の基礎というものを唯一これだとは決めるのは難しいだろう。
では、趣味で描いている人が伸び悩みを感じて何とかしないと描くことが面白くない、もっと上達したいなあと思ったときに、「デッサンの訓練をやり直す」以外にはどうすればよいか、続きは次回に述べたいと思う。