コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

ゴッホの手紙、3


1886年の3月に弟のテオを頼ってパリに出てきたゴッホは、最初はテオのアパートに、その後はルピック街に住む。6月から3ヶ月間、コルモンのアトリエで学ぶ。印象派の影響を受けるようになり、点描法も試みる。1888年2月に、ロートレックの勧めにしたがってアルルへ突然旅立つまでのパリ時代に、200点以上の作品を残している。
さて、1887年夏のテオへの手紙は、こういう書き出しで始まっている。

「君の便りと一しょに同封のものを有難う。たとえ成功しても、絵では必要経費さえ取戻せないのがやりきれない。」

同封のものとは、テオからの仕送りのお金だろうと思う。この後のテオ宛の手紙には、しばしば「同封の○○フラン札を有難う」という書き出しが見られる。手紙の続きを引用しよう。

「『まあ、だいたい元気だが、会うと悲しくなってしまう』と、君が家族のことを知らせてくれたのは、つらかった。十何年か前だったら、うちはいつまでも安泰で万事うまくゆくと信じきれただろうに。君の結婚がうまくいったらお母さんはさぞ喜ぶだろう、それに健康のためにも仕事のためにも独身でいては駄目だ。
僕は━結婚したいとも子供をほしいとも思わなくなったが、それにそんな風には全然考えもしないのに、それでも三十五にもなってこんな有様なのが時には憂鬱だ。だから、絵との悪縁がときどきいやになる。」

ゴッホの父親は、1885年3月に急死している。長男であるゴッホは、家族への責任を感じていただろう。手紙には、テオへの申し訳なさが書かれている箇所もある。

「どういう結果になるかわからないが、君の負担を少しでも軽くしたい━将来それが不可能だとは思えない━君に巻き添えを喰わせずに僕の描いたものを堂々と人にみせられるように向上し続けるつもりだ。」

絵の仕事に自信と希望を持っていること、それがゴッホにとっての唯一の救いであったろうと思う。
掲載したのは、1887年の作品。