コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

ゴッホの手紙、4


1888年2月20日、ゴッホは突然、南フランスのアルルへと旅立つ。2月21日付けの弟テオへの手紙は、次のように始まっている。

「旅行中、展開する新しい土地への関心とおなじく、ずうっと君のことを思いつづけた。おそらく君も時々ここへ来るようになるにちがいないと一人で考えた。パリでは落着きと均衡をとりもどして、元気をつける隠れ場所でももたないかぎり、ほとんど仕事はできない。さもないときっと馬鹿になってしまう。」

ゴッホは、どうやらパリでの生活が合わなかったようだ。都会の生活のどういうところが合わなかったのか分からないが、人間関係も一因かもしれない。この次のテオへの手紙の書き出しは、

「親切な手紙と50フラン札とを有難う。いまのところ予想していたほどここの生活費は安くない、でも習作を3点仕上げた。それは、おそらく今頃のパリではできなかったことだ。
オランダからの消息が大体良かったのは嬉しかった。僕が先に南仏へ来たのをレード(パリに住む英国人画商)が不満に思っているのにはいささか驚いた。彼と知合いにならなかった方がわれわれに有利だったという考えかたは次の理由で間違っている。まず第一、とても見事な絵を一枚贈ってくれた(この画はわれわれが買取ろうと考えていた括弧つきのものだ)、第二に、レードはモンチセリの値をつり上げたし、われわれもそれを5点持っているから、それだけ値が引上げられる結果になった、第三に、最初数ヶ月間はとても親切で気持ちのいい仲間だった。」

また、同じ手紙になかで、

「われわれの友人ケーニングを君のうちに住まわせてやったら、きっと彼のためになる。リヴェのところを訪ねたのも、われわれの注意が足りなかったのではないことを認めさせなければいけない。
君が泊めるのを引受ける気なら、彼もやりくりに都合がいいだろう。だが君には間接的な責任もないことを父親にハッキリ説明したまえ。」

ゴッホは他人との付き合いで、かなり神経をつかっているようだ。
掲載したのは、ゴッホの1887年の作品。