コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

ゴッホの手紙、2


前回述べたような理由で、ゴッホの手紙を読み進めることを続けてみたい。テキストとしては、岩波文庫の「ゴッホの手紙(上・中・下)」を使う。訳者の硲伊之助(はざまいのすけ)は画家、初版は1955年。上巻は友人のベルナール宛のもの、中・下巻は弟のテオドルに宛てたものとなっている。
上巻は後に回して、中・下巻の弟テオに宛てた手紙から読んでいこうと思う。中巻は、1886年にテオを頼って突然パリに出てきたときから、アルルでゴーガンが来るのを待っている時期まで、下巻は、引き続きゴーガンとの共同生活とその破綻から、ゴッホの最後の日までとなっている。
中巻に載っている最初のものは、1886年3月にパリに着いたゴッホが、テオに到着を知らせるために出した走り書きの手紙。以下に全文を引用する。

「まっすぐ来てしまうつもりではなかったのだが、さんざん考えたあげくなんだ、これでお互いに時間を無駄にせずにすんだと思う。僕は正午からルーヴルで待っている、君の都合でもっと早くってもいい。
『四角い室』へ何時に来られるか返事をくれないか。繰返していうけれど、生活費は今までと同じだけしか掛からないはずだ。金はまだ残っている。それを使う前に君と相談したいんだ。きっとうまくやれるよ。
だから早く来てくれ給え。」

ゴッホは、1886年1月にアントワープの美術アカデミーに入った。ゴッホのデッサンを見た教授は、彼を初級クラスに入れる。アカデミーの権威主義に強い不満を持ったゴッホは、パリ行きを決意する。パリでは最初、テオのアパートに転がり込む。
ゴッホは、テオからの援助で暮していた訳だから、上の手紙でも生活費のことを心配している。弟になるべく迷惑をかけたくない、だけれど、パリで絵を描きたい気持ちが抑えがたくなってしまった。「きっとうまくやれるよ」と書いているゴッホは、生活においても制作においても、何とか今より良くなりたいと強く願っている。読んでいるこちらもゴッホを応援したくなってしまう。

掲載したのは、ゴッホの1886年の作品。