コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

丸木スマ


画家たち、3

原爆の図で有名な画家丸木位里・俊夫妻の思い出を、画家の平松利昭氏が、1月20日(木)放送のNHKラジオ「ラジオ深夜便」で語っていた。そのなかで、次の話が面白い。

平松氏は、丸木俊から「1年に1000枚デッサンしなさい」と言われたという。1年に1000枚のデッサンをしようと思うと、1枚1枚がスケッチに近いものになると思うが、それだとやってやれないことはないだろう。しかし何年も継続することは大変で、つまり1年こっきりだと頑張れるが、5年も10年も続けるのは至難であり、でも、そうしないと画家としてはダメだよということで、実際に丸木俊は「1年に1000枚デッサン」を実践していたということだ。

その俊が、「私は他のどんな画家にも負けないが、スマさんには敵わない」と言っていたという。スマさんとは、丸木位里の実母の丸木スマのこと。以下の丸木スマについての文は、丸木美術館(http://www.aya.or.jp/~marukimsn/index.htm)のホームページから引用したもの。


丸木スマ(1875-1956)は広島県安佐郡伴村(現広島市安佐南区)に生まれました。幼い頃から野山を駆けまわり、生きものたちと心を通わせて成長した彼女は、20歳で飯室村の丸木金助と結婚。家業の船宿業や家事のほか、畑を耕し、野草を摘み、魚やカニをとり、蚕を育てるなど目まぐるしく働きながら、長男で水墨画家の位里、長女で後に画家となる(大道)綾子ら3男1女を生み育てました。やがて広島市内の三滝町に転居し、1945年に原爆を体験。翌年春に夫・金助を失います。
その後、位里の妻・俊に絵を勧められ、70歳を過ぎてはじめて絵筆をとると、常識にとらわれない自由奔放なスタイルで生きものたちや自然の姿を描き、周囲を驚かせました。1950年に第4回女流画家協会展に初出品、翌1951年には再興第36回院展に初入選。院展にはその年から3年連続で入選して院友となり、一躍「おばあちゃん画家」として注目されました。1952年には広島の福屋で大規模な個展も行っています。
作家の水上勉は、スマの絵をひと目見て感動し、「ながい歳月を耕して生きた人の暦」「暦の根に雪をかぶって凍てていたものが、春の光をあびて、裂け目から噴出し、素朴な交響曲を奏でている」と絶賛しました。その大らかで生命のよろこびにあふれた絵画は、今も多くの人に愛され続けています。


昨年逝去した丸木美術館の館長、針生一郎丸木スマについて述べている。以下に引用する。


針生一郎丸木スマ再考」
丸木スマ太田川沿岸に船宿と農業を営む丸木家に嫁ぐと、夫がハワイに出稼ぎに行った間、同居する両親、 兄夫婦にも仕えながら船宿と畑作を一身で支えた。 だが、臨月の腹をかかえて客室から食膳を運ぶうち階段をころげ落ちたため、 長男位里の右半顔に大きなアザを負わせたことをスマは可哀想とし、位里が好きな画家の道に進むにまかせたという。 位里のあとにも二男一女を設けた夫婦は、船宿をやめ田畑・建物を売って広島郊外に移り住んだのちも、 共稼ぎでさまざまの賃仕事をつづけたが、労働も貧乏も全然苦にしなかった。ところで、広島の原爆を被爆した夫が翌年死ぬと、入れかわりに戦死したと思われた三男が帰還し、 結婚してスマをひきとったから、働き通しのスマは70歳をこえてはじめてすることのない退屈をこぼした。 そこで丸木俊がスマに絵を描くことをすすめて画材をあたえたが、つぎに広島を訪れたときスマの絵を見て、 位里も俊も「不思議な絵だが、何かある」とおどろいたらしい。
「色が張りあう」とスマ自身よく言うように、そこでは鮮明な色彩同士の対照と均衡で画面が織りなされる。 そこに描かれた植物、動物、静物、建物、乗物、人物、村の年中行事、村祭、芸能、子どもの遊びなどは、 いずれも眼前の対象のスケッチなどによるものではなく、愛と熱中によって彼女に灼きつけられた記憶からほりおこされ、 楽園、マンダラ図、童画の方へ自在に変容されたものだろう。 そこで丸木俊がスマの小品数点を女流美術展に出品すると、「どこの外国人が描いたか」と全作入選した。 翌年は位里が戦前船田玉樹、岩橋英遠らと日本画変革のため歴程美術会を結成したのち、 岩橋が院展に出品したので「歴程」から除名したほどの院展に、スマの作品を3点出すと全部入選で、 さらに2回入選して「院友」にまで推された。こういう評価の背景には、19世紀末以来、芸術的価値は技術の巧拙よりも、 無垢な魂にはぐくまれるヴィジョンの強さによるとされ、美術家がアフリカやオセアニアの木彫、 アンリ・ルソーらしろうとの「素朴画家」、精薄者や精神病者の作品にヒントを得てきた事情がある。 だが、丸木スママチス展で「わしの絵によう似とるのう」、ピカソ展で「この男、少し気が変じゃないか」と語ったと聞くと、 彼女は素朴派を一歩突きぬけ、生活の智恵と直結する自己のヴィジョンの造形文法を、すでに明確に自覚していたと思われる。


引用は以上だが、丸木スマについていろいろ知ると、いい絵を描ける人間になるには、性格の他に、日常の生活をどう過ごすのか、人生に対する姿勢はどうなのかが、絵を描く技術よりも決定的にものをいうのだと考えざるをえなくなってしまう。
掲載したのは、丸木スマ「鳥の林」。