コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その54

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風景画、特に自然を描いて難しいのは、樹々や生い茂る植物や池や川の水面、いろんな姿の山々など複雑で多彩な表情に統一感を与えて調和のとれた画面をつくることだ。そのためには、描こうとしている目の前の自然を改良する場合もあり得るだろう。

 静物画を描くときは果物や器物などのモチーフを用意して組んでいくけれども、その最初の段階から仕上がりの画面のバランスや統一感を考慮して、例えばリンゴはいくつにしようか、ワイン瓶はどこに置こうかといくつもの案を試しながら構成を決める。それなら自然の風景を描くときも同様に、あの松はもうすこし右の方にして遠くの山はもっと低くしてという具合に、画面上で自由に変更してもよさそうに思う。そういう自然を改良する必要性を認めて風景画を描きたいものだと思う。ところが厄介なことに、いわゆる自然の法則を考えに入れるなら、そうは気軽に自然を改良できなくなる。

ゴッホは弟のテオへの手紙で、友人の画家のジョン・ピーター・ラッセルから手紙をもらい、そこではモネの作品を実にうまく評していると書いている。ラッセルはゴッホへの手紙の中でモネの作品をとても気に入ったと語り、感心した点をいろいろと挙げ、その上で構成上の欠陥について述べている。例として幹が細いわりに葉が多すぎる木があり、事物のリアリティ、つまり自然の法則から見ればまったく酷いものだと指摘している。この指摘は上に掲載したモネの「アンティーブ」に言及したものらしい。

「自然の法則」を持ち出すと、画面の必要上から自然を改良するとしても、実際の何をどのようにどのくらい変更しても大丈夫なのかが悩ましい問題として浮上する。写実で絵を描くのであれば、自然の法則の問題は避けて通れないが、それを考えすぎたら筆が進まなくなる。結局のところ、この問題を頭の片隅で意識はしつつ、不自然さが画面に生じていないか感覚で確かめながら自然の改良をすればよいと思う。「アンティーブ」に戻って言うなら、私はラッセルの意見と違い、葉が多すぎる、そういうことがあっても構わないと考える。その木を見て感じた印象を忠実に実現するためであるなら、自然の法則から多少離れた改良であってもよしと思いたい。不自然さが生じているか否かは、自然の法則に忠実かどうかよりも、作者の主観で自然らしさを保っている、そう感じた改良の範囲で決まると考えてよいだろう。