コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

ゴッホの手紙、13


ゴッホの手紙を読んでいると、ゴッホの人生や人間性が分かってくる。そしてゴッホにさらに引きつけられる、こういう場合が多いのではないだろうか。ところが、もっと本能的にゴッホに引きつけられる人もいて、詩人で劇作家の三好十郎もそうだったようだ。彼がゴッホについて書いたエッセイが面白いので、今回はゴッホの手紙からはなれて、それを載せることにする。

『私がゴッホの絵に引きつけられ、彼の一生の足跡から強く動かされたのは、早く十代の中学一二年からのことである。
もともと絵がひどく好きで、青年時代まで画家になるつもりでいた。青年時代に、絵を描くだけではどうしても満たされない飢えのようなものから促されて詩を書き出し、それが発展してやがて劇作に移って行き今日に至っているが、その間も絵を描くことはやめない。時間が充分でないのと持続的に描かないため上達はしない。それに一枚の絵を永くつつくタチなので完成した絵は極く僅かしかない。現在も描いている。原稿を書くために二時間も机に坐っていると頭が痛くなってくるが、頭の痛い時でさえイーゼルに向かって絵具をいじっていると三時間ぐらいは夢中に過ぎてしまう。絵画は主として感覚中心の仕事ゆえ、人を酔わせる作用があるからとも思うが、それよりも私という人間が本来ひどく感覚的な人間のためではないかという気がする。五官が過敏すぎるのである。とくに嗅覚と視覚がそうだ。物の匂いがあまり鼻に来るので、まるで犬のようだと人からいわれたことがなんどもある。また初夏の林の道などを歩いていると、あまりに多種多様の緑色が見えすぎて、その刺激のために目まいを起して倒れることがある。
私が神経衰弱になりやすいのは、これらの感覚過敏のためらしい。時にそれが呪わしいような気がすることがある。しかし、次第に、それも自分に生れついたものだとあきらめるようになって来た。あきらめるというよりも、これが自分というものだ。これらの過敏さを抜きにしては自分というものは存在し得なかったのだ、これは自分に与えられたものだ、してみれば自分にとってかけがえのないという意味で貴重なものであると考えるようになった。
私がゴッホに本能的に引きつけられることの理由に上(*底本では右)のようなこともあるかも知れない。ゴッホの絵が唯単に良い絵として私に受け取られたのではない。実はゴッホの絵を「うまい」と思ったり、「美しい」と思ったりしたことは、ほとんどないのである。ただドキンとするような感じがこちらに来るだけなのだ。彼の絵を貫いている根源的なイノチのようなものが、他人のもののようでないジカな感じでこちらの内部に入りこんでしまった。だから私がゴッホから受けたものは影響とはいいにくいかもしれない。もっと中心的なところを動かされてしまったらしい。いわば私はゴッホを「食った」らしいのである。それが私の薬になったか毒になったか私は知らない。しかし、どうも食ったらしい。良かれ悪かれ食ったものは自分の血肉の一部になってしまっているのだろう。
私が時々ゴッホの絵の「ヘタさ」かげんが鼻について「なんとまあ小学生のようなヘタさだ」と、まるで自分の作品のアラを見つけて嫌になった時と同じ気持ちに襲われたりするのも、そのためかもしれない。また、ゴッホと同じ血液を持ちながらゴッホの持たなかった静謐を持っていたジオットや、近代ではゴッホから出発してクラシックな安定の中に腰をすえたドランなどに強く引かれるのもそのためらしいし、また、ルオウに敬礼しながらも彼の絵を永く見ていることに飽きてしまって「わかった、わかった。もうたくさんだ」といいたくなるのもそのためらしい。それからまた、小林秀雄などが「麦畑の上を飛ぶ烏」などを褒めちぎったりすると「じょうだんいってもらっては困る。あれは私の頭の調子が変になりきった時の、落ちついて絵具をしっかりカンバスに塗っていられなかった時の絵で、絵そのものが少し狂っている。異様なのは当然だろう。第一、あんたが打たれたという空のコバルトは、私の塗った時とは恐ろしく黒っぽく変色しているんだ。褒めるなら、せめてそれくらいのことはわかった上で、もっとマシな絵を褒めなさい」とつぶやいて見たくなるのも、そのためかもわからないのである。(後略)』

掲載したのは、ゴッホの1890年の作品、「麦畑の上を飛ぶ烏」。