コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その126

 

前回はモネのルーアン大聖堂を取り上げて、建築物のアウトラインは歪んで描いても変な絵にはならないという話をした。そして、「建築物以外でも、整ったラインで形を正確に描くと印象派風の絵にならないのかと問われそうだが」と文末に書いた。今回はその続きで、歪んだ(あるいはダブった)ラインで形を不正確に描く必要がある場合についての話をしたい。

上に掲載したモネの作品を見てみよう。この作品を見ると、建物や旗や群衆の形の輪郭を正確に描く意志がモネには微塵もないと分かる。そんなことよりもモネが心をくだいたのは、眼前に広がる情景の躍動感あふれる印象をいかに正確にキャンバス上に再現するかにある。

躍動感を表したいなら、写真に撮って細部まで寸分違わず正確に描き写したら可能ではないか。しかし、それではうまくいかないだろう。なぜなら、あくまでも写真は静止画像なのであって、モネはもちろんのこと我々が見ている情景は動画だからである。それなら絵画も同様に静止画像だから無理かというと、上の作品が見事な実例だが、印象派の絵画では十分に可能なのである。

印象派風に描くとき、躍動感(動き)も表現できる。それには、ものの形を整ったラインで正確に写すことは妨げになってしまう。ものが動くとき、輪郭は震えて歪みダブるのである。しかし実際にそのように描くのは難しい。印象派風にに描こうと思っていても、どうしても整ったラインで形を正しく描くことに気持ちが向かい過ぎるのではないか。形に対して、鷹揚な気持ちでいられるようにしたいものだ。

形に限らず、「鷹揚な気持ちで絵を描く」は、総じて趣味で描いている人の方がプロの画家よりも保持しやすい制作の姿勢のように思う。そして、それは趣味の人の絵に個性的な魅力が生まれる理由の一つである。さらに、「本当の人格の作」が生まれる可能性を秘めているとも言える。「本当の人格の作」とは、以下の文章を読むと察せられる。以下は野口雨情の「小川芋銭先生と私」と題された随筆の中で、夏目漱石がいろんな絵を鑑定している場面である。

夏目漱石先生のところに樗陰と言ふ人が、どこから手に入れたのか一抱えの絵を持ち込んだので、漱石先生は一々それを見て居たが、「これも駄目だ。あれも駄目だ。どれを見ても皆、銭を欲しがって描いて居るので、ろくなものはない」などと言って居た。すると隅に押しつけてある絵があった。先生は「それを見せろ」と言った。樗陰氏は、「これはつまらぬものです。おまけに貰って来たのですから駄目です」と頭からあきらめて居た。漱石先生がそれを見ると、実に気品の高い蘭であった。「これはよい。まだくれた人のところへ行ったらあるだろう、これこそ本当の人格の作だ」漱石先生はしきりにほめたので(後略)

プロの画家にはちょっと耳の痛い話である反面、趣味で描いている人には励みになるように思う。さて、印象派風に描く話は次回も続けたい。

 

絵を描くのが上手くなる方法、その125

 

今回も写真を見て風景画を描く話をするのだけれども、印象派風に描くなら多くの点でモネの作品が参考になるだろう。色彩につては前回に少し触れたので、今回は別の角度からモネの作品を見て参考にすべき点を考えたい。

上に掲載したのは、モネが描いたルーアン大聖堂の連作の一つである。モネのルーアン大聖堂の連作は33点にも及ぶ。それほどモネはこのモチーフに執着したが、大変にエネルギーを要する制作となったようだ。1893年4月には、エネルギーを使い果たしたモネは制作を中止してジヴェルニー(自宅のある所)に帰り、3日間寝込んだということだ。また、残された手紙から、モネがこの連作の制作に相当苦労していた様子もうかがわれる。画商のデュラン=リュエルに、「自分がここでやっていることに完全に自信を失い不満足だ。理想が高すぎて、よかったものまで駄目にしてしまう始末だ」と書き送っている。もっとも、これらの連作はアトリエで仕上げられ、20点が1895年にデュラン=リュエルの画廊で発表されて高い評価を受けた。

さて、ルーアン大聖堂の連作はモネの渾身の力作なのだが、その仕事でモネが追求したのは何かという深いことは参考にしにくい。具体的にヒントを与えてくれるのは些末な事象で、例えば形を取るときのラインの性質だ。実際のルーアン大聖堂を写真で見ると直線が際立つ建築物で、垂直方向の直線を束にしたような外観をしている。もし、その写真を見て水彩画を描くのなら、外観や細部の形を下描きするときに、定規を使ってまっすぐに正確なラインを引きたくなりそうだ。ルーアン大聖堂に限らず建築物は、屋根や窓や外壁、入り口など直線的なラインであることが多い。だから、ビルの窓のように直線的で形や大きさや向きが揃っている場合だと、少しでも歪んだりズレたりすると変な絵になってしまう。と、思い込むのは危険である。そういうヒントが上の絵から得られるだろう。

上のモネの描いたルーアン大聖堂には、歪んでいないまっすぐな直線を見い出すことが難しい。どのラインも微妙に歪んでいる、というか、震えている。それで変な絵になっているか、もちろんなっていない。その理由はともあれ、建築物を描くとき、まっすぐな線を正確に引かなくてもよいわけである。殊に印象派風に描くのならば。複雑な建築物を描くときに形のラインを正確に引いて、どこがどうなっているのかを説明するつもりの絵を描くと、それでは印象派風にならないだろう。対象を見たときの印象(とくに色彩の)を画面に表したいと思っても追求しにくいと思う。

それでは建築物以外でも、整ったラインで形を正確に描くと印象派風の絵にならないのかと問われそうだが、この話の続きは次回に。

 

絵を描くのが上手くなる方法、その124

 

前回の続き。印象派風の風景画を描く場合に、写真を見て描くのもよいだろう。本来、印象主義の画家たちと同じ絵を描くのなら、キャンバスや水彩紙やイーゼル等をかついで野外に出掛け現場で制作するの一択だ。しかし、印象派風の明るくきれいな色の絵を描きたいだけで、印象主義云々の理屈には興味がないなら、写真を使って描いてもいっこうに差し支えない。ただ、その際に難しいのは、色彩が単調に陥らないように工夫する必要があることだ。

写真を見て描くと写真と同じ色に写そうとする気持ちが勝って、単調な色使いで描き進んでしまい易い。写真に写った物の色彩は単調な色味になるからで、つまり緑の葉の陰は紫色には写らない。緑の葉の陰は、緑が暗く写るだけである。では、どう工夫するとよいか。上に掲載したモネの作品を例にして説明してみよう。

この作品はとてもシンプルな絵のつくりになっていて、前景の逆光になっている暗い色の葉と、その向こうの広々とした草地と林、そして遠景へ続く一本道とで構成されている。一見単調で面白味のない景色だが、それでも単調で退屈な印象の絵になっていないのは、色彩が豊かであることが大きな理由だろう。例えば、手前の逆光になっている葉や草地のところの色彩は、写真では写らないであろう色数の多さが見られる。写真に写らないのは、そこにそんな色がないからだとは言えない。「カメラの眼には見えなかったが人の眼なら見える色」だと考えるなら不思議でも何でもない。人は人でもモネだから見えた色と言われると困るが、本質はカメラと人の眼は同じ色を見ないという問題である。だから写真の色彩は、実際に見て感じる色彩よりも単調で貧弱であるという前提で、使う色の選択の幅を広げる必要がある。

ついでに書いておくが、これはあくまでも印象派風のカラフルな絵を描くのには必要という話で、明暗の変化の妙を重んじて美しい調子の絵を描くならそれほど重要ではないだろう。例えば銀灰色の素晴らしいコローの風景画のように。

印象派の画家の中で、最も印象主義に忠実だった画家はシスレーと言われている。しかし「印象を表現する」ことに最も徹した画家はモネで、印象派を超えた特異な存在だといってよい。そのモネの作品からは、より自由で個性的な印象派風の絵を描くヒントを得られると思う。続きは次回に。