コラムトエ

兵庫県西宮市にある久我美術研究所から発信する美術に関する「コラムと絵」を載せていきます。

絵を描くのが上手くなる方法、その133

 

空を遠近感が出るように描くには、画面上方(近景)の空は青さを濃くして、下方(遠景)の空は淡くする。また、上方にある雲は明瞭に、下方にいくほどはっきりしないように描くとよい。前回掲載したモネの絵はそうなっていた。しかし空の表情は多様だから、この描き方が万能なルールになるわけではない。上に掲載したモネの1883年の作品を見てみよう。

上の絵では画面下方の遠くの空の青さが上方(近景)よりも濃い。画面上方に白い雲が固まっているのでそうなる。これでは上のルールは使えない。しかし、それでもこの絵の空にそれなりに遠近感が出ているのは、他のルールをうまく使って描いているからである。ともあれ、空の遠近感を表現するのに、「空の青さは、画面上方は濃く下方にいくほど淡くする」「画面上方の雲は明瞭に描き、下方はぼんやりに描く」というルールは、使える場面が多いので覚えておいて損はないけれども、このようないろんな描き方のルールを学んでそれを駆使していい絵にしようとしても、印象派風に描く場合にはあまり有効とはいえない。上の絵をもう一度見てみよう。

荒波が立っている海を見ると、近くにある波と遠くの波との強弱の差をほとんどつけずに描いている。岩壁は遠くにあるのにかなり粗く描いて強くしている。遠近法のルールに従うなら、近くの波はくっきりさせ、遠くの波ほどぼんやり霞ませる方がよくはないだろうか。岩壁は、もう少し調子のコントラストを弱くし丁寧に描いた方が遠くに見えている感じが出るのではないか。たしかにそのように描けば、海面の遠近感は今よりも出て広々するし、岩壁も離れた所にそびえている感じがするだろう。しかしそれでは、現地で実際にこの景色を目の当たりした画家には、いったいどのように見えていたのかを表していることにならない。

上の絵からは、現実にモネの眼に映った景観がどのようなものだったかがはっきりと伝わってくる。「白く輝く荒い波頭は近くも遠くも同様に際立って見え、微妙な色合いのゴツゴツした岩壁は眼の前に迫ってくるようだ」、モネにはこう見えたのである。厳密に言うならば、このように見えた「その時」を体験したということ。

印象派風の絵を描くとき、こう描けば立体感が出るとか遠近感が出るとか、いろいろな描き方のルールを覚えていると戸惑う場合がしばしばあるのだが、実際に自分に見えている事象に拘る方がよい。かといって、立体感や遠近感などの表現をするときの描き方のルールは知っているに越したことはない。知った上で過度にとらわれないようにするという、どっちつかずの、悪く言えば優柔不断、良く言えば自由自在の境地が望ましいと思う。

次回も印象派風に描くというテーマをさらにしつこく述べてみたい。

 

絵を描くのが上手くなる方法、その132

 

あらかじめ念押しすると、印象派風に絵を描きたいならどうしたら上手くいくかの話を続けている。前回、モネがツボをおさえつつ適当に筆を運んでいる具体例として、空と川面を描くときのタッチの使い分けについて指摘した。それでは上に掲載した絵ではどうだろうか。「夏のヴェトゥイユ」と題された1880年のモネの作品だ。画面の全体ではなく部分を掲載している。

雲と水面の描き方を比べてみよう。どちらも横方向の短い線のタッチで描かれている。しかし、タッチの太さが違う。「雲を描くときは太い筆、水面を描くときは細い筆を使う」みたいなルールを決めているかのようだ。ルールを決めた上で、リズミカルに適当な筆運びで絵具を置いていると思えてくる。適当に筆を運んでいるので、予期しないことも起こる。例えば、画面左端の2本の木のところを見てみよう。向かって右側の木の上部の輪郭を見るとタッチが入り込んでいる。勢い余って思わず木と重なってしまったのだろう。この適当さに我慢できない人は、木の側を塗って形を整えるだろう。実際、私もそうしそうだ。しかし、そういう寛容さに乏しい気持ちで筆を運んでいると印象派風の絵にはなりにくい。「適当さ」の瑕疵、実は効果なのだが、これを肯定的に受け入れる必要がある。

「適当さ」は無神経とか粗雑とか闇雲とは異なるから、上で述べた雲と水面のタッチを使い分けるみたいなルールを感じ取らないといけない。それには、結構深い観察力が備わっていないと難しい。これをデッサン力と言い換えてもよい。そうはいってもルールが見えないと描けないわけではなくて、描きながら対象をよく観察してルールを感じ取っていけばよいので、描きたいときに描き始めることを躊躇しないようにしたい。殊に油絵ではとにかくキャンバスに向かえばよくて、画面上で根気よく苦闘すればよい。しかし水彩画でそんなことをすると失敗作になりやすい。対策は二つあって、一つはできるだけ良質(つまり高価)な水彩紙を使う。絵具を着けたり取ったりする、ある程度の無理が利く。もう一つは、1枚だけ描いて完成作としないで、何枚も描くつもりで取り組む。つまり、初めの何枚かは練習のつもりでルールを探すために描くわけだ。

ところで、そもそもの話だが、ルールを見つけたぞと思っても正解かどうか分からない場合はどうしたらよいだろう。形が正しいかどうかなら対象と見比べれば分かるし、色が似ているかどうかも容易に判別できるだろう。しかし、相応しい的確なルールかどうかはどのように判断すればよいのか。再び上の作品を見てみよう。雲と水面のタッチの使い分け以外にもルールはある。空に注目してみよう。

空を描くときは、画面上方が近景で下方になるほど遠景に見えるようにする。そのためには、空の青色は上方ほど青く下方にいくほど淡くなるようにし、雲を描くなら上方の雲ほど明瞭に下方になるほどぼんやり弱く描く。上の作品はそういうルールを適用して描いている。その結果、見ての通り空には遠近感が表現されている。「見ての通り」と書いたが、これが判断のポイントである。ルールを決めて描いてみて、その結果、描いたことが自然の有り様に相応しく見えているか、不自然に変な感じに見えないか、自分自身の眼で確かめて判断すればよい。自分の眼が信じられない人は、身近の人に見てもらって意見を聞いてもよいのだが、いつもそうだと不便だから早々に自信を持って判断できるようになりたいものだ。さて、上述の空のルールだが、どのような空でも通用するかというと当然ながらそうはいかない。この話は次回に続く。

 

絵を描くのが上手くなる方法、その131

 

「適当のススメ」と題名をつけたいくらいの話を今回も続けたい。適当に描くことは、とても大切であるという話を前回にした。それを具体例を見ながらよりはっきりさせたいと思う。上に掲載したのは、モネの1880年作の「ヴェトゥイユ近郊のフルール島」。明るい日差しの清々しい景色がとてもリアルに感じられるいい絵だと私は思う。この絵をよく見てみよう。

画面の下半分を前景の野草が覆い尽くしている。モネはこれを非常に適当に描いているが、適当さの具合が絶妙である。どこがそんなに上手いかというと、まず白い花の描き方だ。白い花と書いたが実際は花かどうかも判然としないけれども、そんなことはどうでもよくて、白い花のようなものが広範囲に分布している景色がとても自然な感じに表現されていることが重要。なかなかこうは自然な感じにならないものだ。手前から奥へ広がりをもって分布している白い花の情景を表すには、近くはまばらに、遠くに行くほど密になるように花を描き入れる。また、近くの花の形は大きく遠くは小さくなるように描く。このことが頭では分かっていても実際に熱中して描いていると、いつの間にか似たような形と大きさの花が均等に分布した不自然な状態になってしまいがちだ。

白い花の部分以外の野草の描き方も適当さが絶妙で、茎の高さや向き、野草のランダムな混み具合など自然の様相に相応しい適当さ加減で筆を運んでいる。適当、適当とさっきから強調しているが、印象派風の絵で野原の感じを出すには必須だからで、隅々まで正確にちゃんと描くぞいう気持ちで描いてしまうと印象派風とは違った絵になってしまうと思うのだ。それでは次に、画面の上半分の空と川面と対岸の樹木等を見てみよう。

空、川面、対岸の樹木等、どれを見ても何とも適当に描いているようにしか見えない。しかし適当な筆運びなのだが、ツボはおさえているのだ。ツボの一つの例がタッチの使い分けで、空と川面と対岸の樹木等をそれぞれ異なるタッチで描いていることだ。殊に画像では空と川面が同じ色なので、どのようなタッチで絵具を置いているか違いが分かりやすいだろう。空はいろんな方向の不規則な筆運びで描かれ、川面は水平方向の途切れ途切れの横線のタッチで描かれている。そのために、空には雲が浮かび広々した遠近感があり、川面は水が流れ光の反射がきらめく様子がありありと分かるわけだ。

このようなツボをおさえれば、「適当さ」がのびのびした雰囲気や自然のリズムや、情景の現実味を画面に与えてくれる。上の絵の野草にしても前回掲載の絵の葉叢にしても、適当に描いたら失敗するのではと思うのではなくて、適当に描かなかったら感じは出ないぞと考える方が印象派に近づくことができるし、絵を描くときの自然を捉える眼も養われると思う。